本当にこれが幸せだと思うこと

 本当にこれが幸せだと思うこと

 不思議でしょうがないのです

 これは妥協なのでしょうか

 幸せの形なんてみんな違うんです

 だけど言い聞かせてるだけなのかもしれませんが

 懐の広さは培われたものであるから

 なるようにしかならない、

 今 その 時 の自分の気持ちが

「真実」なんでしょうね。

 たとえば誰かの為に家事をしたり自分を満たすため生きるためにお仕事します。金があれば時間も買えてお仕事なんかもしなくて済み、それは生まれ持ったもの有り自分の経験が生かされる場合もある。でもそれって己自身が価値捕るものなのかしら。残念ながらどうしようもないことあると思うのです。

 でも、そのためっていう方もおかしいんですよね。そう言ってる時点で既に負けは認めてます。一旦の考えを引いていて、そうすることによって、自分は悪くないと思い込もうとしてるのかもしれません。

 なんか全然まとまってませんけど、理解不能な言葉羅列です。申し訳ない(´ω`;)

 ただ一つ言えることは

 今この場にいれることが

 とても幸せだということです。

 どんな形であれ

 生きているのですから。

 それは揺るぎない真実です。

 何が言いたいかなんて自分でもわからない、なんだか語りたくなっただけです。私はこれを伝えたいなんて言葉がはなから見つかってれば、私はあんなめんどくさい所多量に作って呟いてなんかいないでしょう。伝えたいことなんて溢れて絞れるわけがない。言葉は多様な意味を持ちその人の心で変わるでしょう

 自分、言葉は吐いて履くだけ自分苦しみますから、でも出てくるんですよね、こいつってだれなんでしょう。それすらも誰かのせいにしたいです。

 ああでも残念ながら思考はものすごくクリアなので私って納得しちゃうんですよね、最悪。

 まぁ本当はうまく出来たから見てみてなんですけどね。

(=´∀`)人(´∀`=)

 言いたいことなんて考えては言葉は出てこない 勝手に湧いて出てくるモノをとっ捕まえ個々に叩きつけてるだけで 全て後付けになります。

 長くなりました。申し訳ありません。が、石ころで考えたら通常運転です。あいつ喋り過ぎ

 石転(。。))可視 @isikorogasi

 震災の時は夜が真っ暗だったから、星が綺麗だった みんな知ってるとは思うけど。お店にも並んだ棚も空で あの一面に牛乳や納豆が並んでるのだってあの時は感動だったし、今思うと面白い。それは私に被害はなかったからで思い出として語れるのだと思うよ。

 被災された方は過去を思い出に出来てる方、少ないんじゃないでしょうか。だって、もう戻ってこないんですから、なんの覚悟もなくて急にいなくなっちゃったら。思い出にすることもできないでしょう、未だにそれは生き続けてるでしょ時は止まってるけど、時間は流れ続けて自分だけ だって、なるでしょう。

 なにを言ってもさ、私には言う権利もないし分からないし、いうもんじゃないですよね。だから私が、震災に関して何を語っても偉そうにしかならないんですよ、だって私は被災者じゃありませんから。これは私の見解で自分の心内の問題ですから。優しくないんで、なんて言葉をかけたらいいのか、わからないです

 残念ながら世の中には空気が満ちていますので、体が元気、健康な限りは簡単に生きて息吸って吐けるいいきることは意外と簡単なんっすよ。死ぬ方が大変だと思います生きを掻き切るんですから。意味がわからないそれが果たして

 人としていきいきてるかは

 わかりませんけれど

 本人が道まっすぐに満ちていても

 また、その逆もしかり

 決めるのは自分じゃないんですよ

 世に生きるということは

 人との折り合いをつけること

 ご挨拶。

 難しいこと

 簡単なこと

 拝と礼を

 灰、零。空になります。

 結局は遅かれ早かれみんな死んでしまう。

 だけど、其処に哀しみだけが残り、いつまでも屹度自分の後悔だけが付きまといずっと悔やみ続ける、そんな別れは誰だって望まないわけで、でも苦しかったり逃げ場が無かったりあゝ受け止めてくれる場所やヒトがゐなかった場合、逃げる場所はやはり思いを寄せるヒトのいる天に還りたくなるのはあたりまえで、そんな風に独りになる世界を幾度も何度も同じようにテレビで駄々流す。それはまた繰り返さないようにヒトの心に残るのだろうか、だったらとうに無くなるのではないかと思うのです。

 知らされる報道に現実はどれぐらい寄り添って上げられているのだろうか。

 最近の報道を見ていると切に感じますが、

 知らないことは罪であると同じに、しったふりで物事を計り選別すること。こちらの方が恐ろしいと思うのです。世界は表も裏もある、全て見得る訳もないでしょう。

 ですから、やっぱり恐ろしいのです。

 私のちいさい脳みそや言葉では、私自身がうまく伝えられるかどうかも危ういし、それが本当に今も未来も同じ意味を持つのだろうかと思うと、あゝもうなにもいえなくなるのです。ですから、作品は作品として語らないこと、かいしゃくは任せたいと思うのです。

 あれ?超脱線した(;^ω^)

 結局よのなか全部主観ですから。自分勝手に行きましょうということで、

 無理に人に合わせたところでしあわせには生きません。どうせいつか死んでしまうんだ。無駄に考えてそれはそれでたのしい、これは自分の心の中だからね。誰の迷惑も掛からない。そしてもし現実生き死にに関わらないのならば無理に併せる必要も辞める事も無意味だと思う、今日この頃、ツイッタに常駐している婆のおうちは今日もみなてんでばらばら、好き勝手にイヤホンして電子機器をそれぞれ弄るのです。

0コメント

  • 1000 / 1000